コラム

ゲノム編集は人間の倫理観も改編するのか

フリーライター 奈津野 亜希子さんのコラムです。

(2016年.vol25)

2015年に中国の研究チームが、ヒト受精卵のゲノム(生物の遺伝子情報)編集を行ったとして論文を発表し、話題になった。さらに去年には、同じく中国の研究チームが世界初となるゲノム編集技術CRISPR-Cas9(クリスパーキャスナイン)システムを用いた遺伝子治療の臨床試験を行った。

アメリカでもCRISPR/Cas9を使い、米ペンシルベニア大学ががん治療の臨床試験に向けた適用申請を行い、承認されている。これ以外にも、CRISPRの発見者の一人、フェン・チャン博士が創設メンバーとなった米エディタス・メディシン(マサチューセッツ州)が、従来の遺伝子治療では難しい希少な網膜疾患などを対象に、CRISPRを使って2017年の臨床試験開始を表明している。

アメリカと中国で激しくなる医学研究競争と共にゲノム編集の技術向上は加速していく。それは人間の未来にどんなものをもたらすのだろうか。

そもそもゲノム編集とは、遺伝子の本体であるDNAの狙った位置を切り貼りするなどして「編集」し、その生物のゲノムを改編する技術である。ゲノム編集により、有用な農作物の作出や、遺伝性疾患の治療ができるようになると期待されている。ゲノム編集技術のひとつであるCRISPR/Cas9システムの確立により、この技術が爆発的に普及するようになった。

たとえば、牛や魚などの筋量を増やすことで効率的に生産することができるようになる。また、医療研究に使う疾患モデル動物といえばマウスが主流だが、よりヒトに近いサルに対してもゲノム編集は有効で、サルの疾患モデル動物を作製することができるようになる。がん治療に対しての応用としては、がん細胞によって免疫の働きを抑制されないT細胞をつくり出すなどがされている。

そして、倫理的問題の最大の的となるのは、ヒト受精卵に対するゲノム編集だ。遺伝子性疾患の原因となる遺伝子を取り除くだけでなく、知能や外見など、好ましい特質を持たせることができるようになるかもしれない。受精卵に対しては、まだ100%の確率で特定の場所の遺伝子を編集することが難しく、生まれてくる子供がなんらかの異常を持ってしまう可能性があり、今はまだ現実的ではない。

中国の研究チームが行った研究でも、「ヒトの受精卵に対する遺伝子治療にCRISPR/Cas9を使うのはまだ早い」と結論づけている。この研究で使った受精卵は、子供として生まれることのない異常な受精卵を使ったが、世界中が衝撃を受けた。倫理面での社会からの批判は必須のため足踏みする国をしり目にいち早く手を付けた中国は一種の炎上商法的な部分があるが、第2、第3のヒト受精卵を使ったゲノム編集実験の呼び水になる可能性は多分にある。

受精卵に限らずにゲノム編集というバイオテクノロジーは魅力的すぎてしまい、この奔流はせき止めるのは難しい。ただし、どの方向に流れていくのか調整し、今はまだ守るべき土地を守るために河川整備する必要はあるだろう。そうでないと、がん治療への利用研究などの有用な水を枯らしてしまいかねない。

それとともに思うのは、この革新的な医学の発達が人間の倫理観や道徳観も改編する可能性だ。昔は倫理的に受け入れられない人も多かった試験管ベイビーも、今では普通に世間に受け入れられている。倫理や道徳の概念は時間とともに変化する。

今はまだ現実的ではなくとも、遠くない未来には受精卵に対するゲノム編集は行われる可能性がある。それは遺伝子治療にとどまらず、好ましい特質を持たせる「デザイナーベイビー」にも及ぶだろう。

生まれてくる子供に自動車のスペアタイヤや非常灯のように、「健康」「知性」を標準装備し、ナビやバックモニター、好みのホイールなどのように、「好みの外見」「高い運動能力」をオプション装備する時代が来るのかもしれない。