(2015年.vol18)
今年もプロ野球は後半戦に入り、高校野球は夏の甲子園が始まろうとしている。今年もきっと多くの涙や感動が生まれる夏になるのだろう。
今シーズン、福岡ソフトバンクホークスに工藤公康監督が就任し、その会見で記者から元福岡ダイエーホークスの藤井将雄投手(故人)についての質問があった。工藤監督がホークス復帰で思い出した人も多いであろうその選手について、熱い夏が始まる前に紹介したいと思う。
藤井選手は佐賀県出身で、3人姉弟の長男。若い頃に両親が別居しており、その後は母親が女手ひとつで3人を育てた。そして彼が17歳になる年に父親は病気で他界し、26歳のときには長女の姉をも交通事故で亡くしてしまう。しかし、この年に念願のプロ野球入りを果たし、福岡ダイエーホークスで背番号の15を担うことになった。
入団会見で抱負を聞かれ、藤井選手は「王貞治監督を胴上げする」と答えた。しかし、当時のダイエーは弱小球団、目標達成に程遠い状態だった。そのダイエーを改革しようとしたのが、1994年に西武ライオンズから移籍してきた工藤選手で、若手を厳しく指導し孤立しそうになった工藤選手を支え、若手とのパイプ役を務めたのが藤井選手だったそうだ。藤井選手自身は先発で伸び悩み、中継ぎに転向するが、1999年に26ホールドを記録し、パシフィック・リーグ最多ホールド記録(当時)を樹立し、最多ホールドを獲得。「炎の中継ぎ」と称され、その年のリーグ優勝で入団会見の目標を達成した。
しかし、この年の夏頃から異変が感じられた。マウンド上で咳き込む姿が見られるようになったのだ。登板過多による疲れではないかと思われたが、日本シリーズ前に検査を行い、「余命3カ月の末期の肺がん」が発覚。本人には知らされなかった。知っていたのは、藤井の家族とフロント上層部、王監督をはじめとする首脳陣の一部、個人後援会、後援会長から病状を知らされた若田部健一などの一部チームメイトなど、身近な人たちだけだったという。
「マウンドに上がるという気持ちがあれば、気力で病気を克服できるかもしれないから」という家族の気持ちを汲み取った球団側は、解雇にはせず、優勝に貢献する活躍をしたとして年俸倍増で契約更改した。2000年には入退院を繰り返しつつも2軍の練習に参加。驚異的なことに、2軍戦に6試合も登板した。「もっと投げたい」というのが口癖のようになっていたという。しかし、9月にはベッドから起き上がることもできなくなり、福岡ダイエーホークスのリーグ優勝を見届けた後、10月13日に病状は急変し、31歳の若さでこの世を去った。
最後の日記にはこうある。
「プロ野球選手はまわりの人々に夢と希望を与える職業だという人がいます。でも、ボクは逆です。たくさんの人から夢や希望、エネルギーをもらってきました。そのことがうれしかったんです。すばらしい野球人生だったと胸を張れます」
工藤監督は現役当時言っていた、「僕は自分の意志でユニフォームを脱ぐことはしない」と。そして、ボールを投げたくて、野球をやりたくて、それでもできなかった藤井選手に恥じない姿を見せてきた。
会見では、藤井選手にどう報告したいか聞かれ、「勝ちたいという強い気持ちを持った選手だった。一緒に野球ができて、僕自身を変えてくれた。99年の思い出深い優勝の恩をみなさんに返せるようにすると報告したい」と語った。
今シーズンのソフトバンクホークスは交流戦も首位で折り返し、7月現在でリーグ単独首位。日本一に最も近いチームと言っていいだろう。背番号「15」は今でも欠番。この強いソフトバンクホークスの影の立役者のことをまた思い出していただけただろうか。