(がんの先進医療: 2020年4月発売 37号 掲載記事)

私のがん体験(膵臓がん)
膵臓がん初回手術から10年、慌てず騒がず①

高村 僚 「すい臓がんカフェ」主宰(66歳)

はじめに

「がんの先進医療」編集長基さんから、闘病記執筆のお話しを頂き、がん患者さんとご家族の皆さん、また読んで頂いた方に少しでも前向きにがんに立ち向かって貰いたい、何かの参考になりご自身の治療に役立てて頂きたいという思いからお話しをお受けした次第です。ただし、一患者としての経験に基づくものですから、必ず正しいというものではありませんので、その点ご了解下さい。今回は、膵臓がん罹患から初回再発までを書こうと思います。

簡単にこれまでの経緯を述べます。

2009年11月 56歳の健康診断で膵臓の異常発見
2010年2月 膵体尾部並びに脾臓摘出、および膵嚢胞切除手術
2012年2月 左横隔膜下に再発
2012年5月 根治を目的に再手術
2015年7月 左横隔膜下と副腎周辺に再々発
2015年11月 根治を目的に再々手術を行ったが、左横隔膜下の腫瘍一部のみ切除

つまり、2015年7月から4年半以上膵臓がんとの共存が続いています。

建設中の東京スカイツリー(2011年1月、著者撮影)

建設中の東京スカイツリー(2011年1月、著者撮影)

健康診断結果

私が勤務していた会社では、誕生月に定期健康診断を毎年行っていました。それまでも胃にポリープが見つかり内視鏡を行ったことは有りましたが、治療を必要とする大きな病気は無く、健康でバリバリ働いていました。ところが、2009年56歳の定期健康診断で、「膵嚢胞と膵臓に影が有り精密検査が必要」と11月末にレポートが届きました。会社が所属していた健康保険組合は、腹部超音波検査など定期健康診断では余り取り入れられていない検査を実施していました。即ち、この腹部超音波検査で膵尾部の影と、バリウムによる胃のレントゲン検査で胃が外部から何らかの影響で押され変形していたという理由で、レポートが上がってきたのでしょう。

これが、何も自覚症状が無い状態で膵臓がんを発見できた大きな要因だと思います。ご存じだと思いますが、膵臓がんは死亡率第4位で現在でも5年生存率8~9%程度、10年生存率5%でがんの王様と言われて、10年前は5年生存率5%で罹患者と死亡者数がほぼ同数の2万5000人でした。通常、膵臓がんは黄疸や背中の痛み、体重減少、血糖値の上昇などで見つかることが多く、その時点ではがんが進行していて手術が出来ないことが多いのです。私の場合も1年前の健康診断では、全く膵臓がんの兆候は認められなかったのです。これも膵臓がんの恐ろしさなのです。

健康保険組合の検診センター医師に、父と母がお世話になっていた消化器外科の先生がいらっしゃる大学病院に紹介状を書いて頂き、12月初旬に初診、中旬にCT撮影、年が明けて直ぐMRI、1週間後にPET–CTを受け、2010年1月中旬に結果を聞きました。その時「悪性ではないが手術が必要で入院3~4週間、加えて退院後2週間自宅で療養が必要。2月22日の週に検査・手術を行うので手術日の3~4日前に入院」との説明を受けました。

ところがその2日後、病院から「2月1日入院、4日手術が出来るがどうですか?」との電話があり、急遽入院することとなりました。会社の上司に事情を説明し、部下には引き継ぎを1週間程度で終了し、業務に支障なく入院できました。

妻と箱根にて

妻と箱根にて

自分自身の決断

この時は、国立がん研究センター中央病院、がん研有明病院の方が良いと思っていました。自分の身は一つしかないので断言はできませんが、結局は病院選択が今日まで生きている大きな要因でもあると思うようになりました。病気になると「決断しなければならないこと」が何度もあります。現在通院中の病院では、標準治療以外の治療にも紹介状や画像、がん組織まで快く出して頂けるのです。信じられない話ですが未だにセカンドオピニオンさえ認めない医師、がん組織は病院に帰属すると言って絶対に出さない病院もあるのです。

昔は、お医者様を信じて主治医の治療方針に従うことが多かったのですが、今は患者自身も自分の状態を十分把握することが大切なのと、医学的な情報や知識もセミナーやネットで簡単に得ることができるので、最終的には患者自身が治療法を決めていくことが必要ではないかと考えています。

山形県庄内平野を走るSL

山形県庄内平野を走るSL

入院から手術前日まで

2月1日に入院し、4日の手術に向け、5人のチーム(リーダーN先生・T准教授・W先生(画像)・H先生(研修医2年)・S先生(研修医1年・女性)で手術前の各種検査を受けましたが、検査時のピリピリした雰囲気とS研修医が私の顔を直視せず申し訳なさそうに話すことで、ただならぬものを感じました。

1日の検査は、採血・心電図・呼吸器・エコー・レントゲン、エコーの検査でN先生とW先生が気になった点があるようでいろいろ話しておられました。また、血液検査の結果で腫瘍マーカーの値が高かったので心配でした。2日午前中、超音波内視鏡を行いましたが、大変つらい検査で終了後は車いすで病室に戻りました。この内視鏡は口から入れ、挿入後全身麻酔を行い眠った状態で検査を行います。胃の内視鏡より太いので、終了後のどが傷つき痛みが数日残りました。

3日に麻酔科で、硬膜外麻酔を背骨に施術し、鎮痛剤を術後2~3日間4㎖/時で行う、手術は全身麻酔で行うとの説明を受けました。

病室に戻り、右胸からカテーテルを入れる手術を指導医N先生が見守る中、H先生が行いました。H先生は初めてなのか、経験が少ない感じでしたが、指導医の指示に従い無事に終了しました。これは、栄養補給と緊急時この管を利用し投薬や輸血を行うためのものです。

普段は医師同士冗談を言い合う様子もお見受けしましたが、研修医が診察を行う時、N先生の表情は普段の優しい顔から一変し、研修医の表情と指のわずかな動きさえも見落とさないよう、一挙手一投足を瞬きすること無く観察していました。人の命を預かる医師のプロ根性を垣間見た瞬間でした。そこで、私は部下を育てることの厳しさが、足りなかったと反省し、退院後退職するまでの間、部下を厳しく指導しました。

家族と日光へ小旅行

家族と日光へ小旅行

術前カンファレンス

3日夕方2時間に渡る術前カンファレンスを受けました。

1.膵尾部の通常のがんの可能性が8~9割。
2.嚢胞は患者への負担を考え、取らない方針。
3.輸血は極力行わないが、必要時は日赤の血液を利用する。
4.血液製剤のアルブミン、フェブリ糊を使う。
5.考えられる合併症。
①主膵管損傷による重篤な状況。
②脾臓を取ることによる血小板が増え血液がドロドロになる。
これについてはバイアスピリンを服用する。
③肺炎。
6.術後の予想経緯
①ICUに1日入りその後一般病室へ(個室を予約)。
膵液のアミラーゼ100~200が正常、翌日は数千になる。
②翌日ベッドから起き上がる。
③翌々日歩行を始める。
④4~5日で食事を開始。
⑤お腹の管は1週間ぐらいで取れる。

この時、初めて腫瘍が悪性であると告げられましたが半信半疑で、落ち込んだ記憶が全く有りません。

手術当日から退院まで

4日の手術は、その日2番目の12時以降に始めると言うことで、予定通り12時に看護師さんが迎えに来られ、手術室へは点滴スタンドを自分で引いて家族と共に歩いて行きました。よくTVの医療ドラマでは、ストレッチャーに横になって手術室に入っていきますが違いました。実際は徒歩で入ります。手術台に横になり硬膜外麻酔ルート、手首動脈点滴ルート確保などを行いました、最後に笑気ガス麻酔を口にあてられ、当然のことながらそれから後は19時20分まで何も覚えていません。

執刀医の声で起こされ、夢現の状態で「今何時ですか」と尋ね、手術が出来たのだ、腫瘍は取れたのだ、良かったと思いましたが、同時に寒気と震えが起こり、周りの先生たちがかなり慌てておられました。後で聞いた話ですが、寒気と震えが術後起きるのはかなり良くないことらしいです。右肩の尋常ではない痛みにも悩まされました。私の場合、丁度その頃「五十肩」を患っていて、それでなくとも肩が痛いのに、長時間の同じ姿勢の影響かも知れません。手術時間は4時間程度の予定でしたが、残す予定であった嚢胞が胃に癒着していたので切除に時間が必要だったそうです。身体を毛布で暖めて貰い寒気と震えも収まり、いつの間にか浅い眠りに就きました。

その夜はICUで一泊しましたが、一晩中看護師さんが慌ただしく手当をして下さいました。翌日は病院で一番安い個室に移動しました。個室は、洗面とトイレがあり、広さも6畳くらいで手術後の痛みと、体につながっていた管が11本、他人のいびきにも悩まされることなく大変助かりました。

これだけの手術を行った場合、やはり個室を申し込んでおいて正解だと思いました。膵臓がん、特に膵頭部の手術を行う人は、金銭的に許されるなら、是非術後10日程度は個室を予約することをお勧めします。

4日に手術をして、その後7日迄は高熱が続き、解熱剤のお世話になり通しでした。この時の辛さは生半可ではなく「もう一度この手術をするなら、死んだ方がましだ」と思うくらいでした。ちなみにその後2度の再発時手術終了後は、「これだったら生きるために何回でも受ける」と思ったほどです。

術後6日目の10日、抜糸と硬膜外麻酔を抜きました。その後突発的な痛みが出るなどでちょっと入院が長くなり、大安の2月18日退院しました。しかし、50mも歩くことは出来ずタクシーで自宅に帰りました。退院と言っても、その後2週間程度自宅療養が必要な状態で、病院から出されるのです。

退院後、胃腸の調子が本調子ではないので、少量の食事を1日に何回にも分けて取る、自宅の周りを散歩するなどして、ある程度体力を付け1週間で出社、業務をこなすことが出来ました。有給休暇と疾病休暇があったので欠勤にはならず、経済的に助かりました。治療を続けるためには、仕事を辞めないこと、一歩進めて会社にしがみつくことをお勧めします。

確定診断

術後1カ月程度で病理検査の結果が出るとのことでしたが、40日以上経った3月下旬に結果が出ました。主治医からは、「普通の膵がんで、膵臓の切断面からはがん細胞は出なかった、腫瘍が2・5×3㎝で大きかったが、明らかなリンパ節転移は認められず、ステージⅢの高分化がん」との説明がありました。この時の主治医が大物であったせいか、精神的に落ち込むことは殆ど有りませんでした。「人間必ず死ぬのだから」と言われ、私は覚悟したのです。ただし、「死」を受け入れたのではなく、如何に残された時間を有意義に使うか、どうすれば悔いが残らないかを模索しています。通常がん細胞の分化度は低いほど悪性度が高く、未分化が最悪で予後が悪いと言われていますが、何人かの医師に伺ったところ、膵臓がんでは分化度は全く関係なく、みな悪いそうです。それは、膵臓の厚さが2㎝程度と薄いこと、近くに門脈と重要な血管が取り巻いており、がん細胞が臓器外に出やすいことが関係しているようです。

その日から術後補助療法として抗がん剤治療が開始されました。現在は膵臓がんの術後補助療法としてはTS–1が選択されますが、10年前は決まっておらず、ゲムシタビンを隔週で実施しました。ゲムシタビンの副作用は、2~3日間熱っぽかったのとシャックリが出ることくらいで、それ程きついものではありませんでした。

東日本大震災

治療以外では、パンキャン・ジャパンや大学病院のセミナー、勉強会に積極的に参加し知識を深め、患者同士の話を通じて膵臓がんは一人一人状態が違うことを肌身で感じました。

術後1年が経ち、以前と同じように仕事をしていた2011年3月11日の午後、東海道新幹線で静岡県三島に出張しました。タクシーで客先に行く途中、電柱が大きくゆれ、配電線も波打ち、運転士さんが直ぐに車を止め様子を見ました。その時は東海沖地震が起きたと思いました。客先でテレビを見て、東北地方が震源の大震災と知り、あの津波に震撼しました。自宅に電話をしても繋がらず、メールもダメで家族のことが大変心配でした。打ち合わせを終え、何とかタクシーに乗り三島駅までたどり着きましたが、当然新幹線は動きません。三島駅前にそびえるビジネスホテルに徒歩で向かい、泊まれるか問い合わせましたが、満室と言う事でした。携帯電話でインターネットに接続し、空きの有った小さなビジネスホテルを予約し、30分以上歩いてたどり着きました。当時私の勤めていたオフィスは自宅から30㎞離れていて、到底帰宅することは出来ません。会社では、事務所内で机の上や椅子、はたまた床で睡眠を取ったであろうことを考えると、家に帰れないとはいえ天国でした。その日の夕方からメールが届くようになり、家族全員の無事が確認でき、その晩はゆっくりベッドで眠ることが出来ました。

このような災害や事故で一瞬に人生が奪われることを考えると、ある程度時間が有る「がん」はまだ良いのかも知れません。

この場で、東日本大震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りします。

再発か

術後補助療法として、2週間に1回のゲムシタビン抗がん剤治療に通っていました。治療日は午前半休を取り午後から出社、治療が長引いた時は、大きな声では言えませんが客先打ち合わせに行くこともありました。

初回手術から2年間全てが順調であったわけではなく、下痢や便秘はある程度の頻度で発生しました。この2年間で1度だけ会社を休み病院に駆け込んだことがありましたが、ガスが貯まっていたことによる腹部の痛みであることがレントゲンで判明しました。

下痢や便秘の頻度も少なくなり、食欲、体調も順調に回復したので、いつ抗がん剤を止めるかを主治医と共に悩んでいました。2012年1月、来月で手術から2年が経つので造影CTを撮って判断しましょうと言われ、2月の診察日に、画像を見た主治医から「再発したみたい」と告げられました。手術痕かと思われていた5㎜程度の影が1㎝になっている、この時のショックの方が膵臓がん確定の時より大きく、数日間落ち込みました。

番外編(家族との情報共有)

私が罹患したのは56歳の時、3人の子供のうち一番下が高校1年でした。自分の死より子供たちの教育費が大丈夫か?と一番先に頭をよぎりましたが、勤めていた会社がと言うより上司かな、が理解あったこと、予後が良かったことなどが重なって今日まで生きることが出来ています。先ほども申し上げたように、会社勤めの方は会社にしがみついて下さい。日本は医療保険が有るのですが、お金が無くなったら治療も出来なくなります。がんになってない方は、がん主体の民間医療保険に入ること、先進医療特約は掛け金が安いので入ることをお勧めします。

それと、がんを子供に伝えるか? と言う問いですが、私は伝えるべきだと思います。我が家では、最初の段階で膵臓がんの恐ろしさ、それ程生きられないこと、治療方法、抗がん剤の副作用など、全てを包み隠さず伝えています。普通の若い人にとって親の死は、非現実的なもので意識することは無いと思います。それが、我が家では差し迫った現実なのです。彼らにはそれを理解しておいて貰いたい。親が死んだ時、親に対し「もっとこうしておいてあげたら良かった、こんなに早く死んでしまうならもっと親孝行しておけば良かった」など後悔させたくなかったのです。我が3人の子供たちは、人の死を身近なものとして捉え、痛みの分かる人間に大きく変わったと思います。

思い出づくりに、家族旅行を沢山しています。箱根、日光、妻の実家、この2年で行きました。

(つづく)

高村 僚(たかむら・りょう)
1953年横浜市生まれ。武蔵工業大学(現:東京都市大学)工学部電気工学科卒業。電力設備設計会社に入社し、変電所の設計、送電線の調査設計に従事。その後、IT業務を社内で推進した。56歳で膵臓がんに罹患し、5年後の2014年61歳で職を辞し、患者会のボランティアなどを行った。2016年より「すい臓がんカフェ」を主宰し、主にすい臓がん患者に懇談の場を提供している。また、「ハマリョウ」の名でブログ発信も精力的に行っている。

高村 僚(たかむら・りょう)
1953年横浜市生まれ。武蔵工業大学(現:東京都市大学)工学部電気工学科卒業。電力設備設計会社に入社し、変電所の設計、送電線の調査設計に従事。その後、IT業務を社内で推進した。56歳で膵臓がんに罹患し、5年後の2014年61歳で職を辞し、患者会のボランティアなどを行った。2016年より「すい臓がんカフェ」を主宰し、主にすい臓がん患者に懇談の場を提供している。また、「ハマリョウ」の名でブログ発信も精力的に行っている。

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